2012年2月 9日 暮らし・日常
捨て犬ブラン(7)

(承前)
ブランと仲良く暮らしていたスナッピー(二世)だったが、生後3カ月頃、アカラス症と言う厄介な病気にかかってしまった。アカラス症はニキビダニとも呼ばれる毛包虫が引き起こす皮膚病で、全身性や四端性がある。スナッピーがかかったのは、どうやら全身性だったようだ。病気のせいでスナッピーを他の犬と遊ばせる事ができなくなったので、スナッピーの遊び相手はブランだけになった。写真はゲームを捜して草原に潜ったまま戻ってこないスナッピーを根気よく見守るブラン。その後ろ姿は子犬を見守る母犬そのものだった。


二枚の写真はアカラスにかかる前と発症したあとのスナッピーの様子だ。スナッピーの場合、初期の症状は頭頂部にできた小さなニキビのようなものだった。そこから徐々に脱毛が始めまり、わずか一週間ほどで顔の大半の毛がボロボロと抜け落ちてしまった。僕は慌てて、家の近くで開業していた獣医に診てもらった。
獣医の対応はおざなりなものだった。イソジンと言ううがい薬を薄めて患部に塗り、これで収まらなければ治らないと言うのだ。僕は立川で開業している獣医の伯父にも電話で相談した。伯父の答えも似たようなものだった。当時アカラス症はまだ明確な治療手段が確立しておらず、子犬の場合は患部を清潔に保ち、成長とともに体力がついて自然治癒するのを待つしかないというものだった。最悪の場合は一生毛が生えない事もあると言う。
僕は困ってしまった。スナッピーはちょうど生後3カ月に達しており、本来は犬対犬の社会化のために、犬同士でたくさん遊ばせなくてはならない時期だったからだ。しかしアカラスにかかった犬を、他の犬と遊ばせるのは憚られた。大半の成犬はすでにニキビダニに感染しており、子犬から感染しても発症する事はないと言うが、万が一成犬が発症した場合は子犬と異なり、一生かかっても治癒が困難な場合もあるからだ。
犬のアカラス症を引き起こすのは写真のイヌニキビダニと呼ばれる全長0.3mm程度の細長い毛包虫だ。実はほとんどの哺乳類はその種に特異的に分化したニキビダニが寄生しており、名前のとおり毛包部に棲みついている。犬の毛包虫は皮脂線の導管部に棲みついており、毛包上皮細胞を食べていると言われる。この毛包虫が異常に増えることで、毛が抜けたり、皮膚が荒れたり、フケが増えたりする。これがアカラス症と呼ばれる病気の正体だ。毛包虫はもちろん人間にも寄生しており、ニキビダニとコニキビダニの二種が知られている。
犬の毛包虫は、生後間もなく母犬から感染するといわれ、普通は何の症状も起こさず、ただ寄生している。しかし毛包虫が子犬の免疫力や抵抗力の低下など、何らかの原因によって異常増殖すると、脱毛が始まり、アカラス症と呼ばれる様になる。
犬のアカラス症は主に子犬に見られる病気だが、成犬にも見られることがあり、成犬ではアトピー性皮膚炎、甲状腺機能低下症、糖尿病などの疾患が、アカラス症の発症に関係していると考えられている。
僕は少し離れたところに、大学の先輩が開業したばかりの新しい獣医院がある事を思い出し、スナッピーをクルマに乗せて診察に連れて行った。先輩の獣医師はスナッピーの病変部から細胞ごと寄生している病原である寄生虫を採取し、顕微鏡で毛包虫に間違いないと確認すると僕に言った。
「まだアカラスの治療法は確立していないが、先日の獣医学会で比較的短期間で治癒可能だと言う新しい治療法が紹介されていた。リスクはあるが、それを試してみる気はあるか?」
僕は藁にもすがる気持ちで答えた。
「良い治療法があるなら試してみたいです。お金がかかる方法でしょうか?」
「金はそれほどかからない。ただし農薬を使うので、施術者にも犬にもリスクがあるのと、犬自身にどんな副作用があるか、まだ十分確認されていない。それと手間がかかるのが一番の難点だ」
スナッピーはちょうど社会化期に入るところだったので、僕はできるだけ短期間で直してやりたかった。病気のために子犬時代の社会化ができないのは犬にとって不幸な事である事を、僕は経験から知っていたからだ。
先輩獣医師が教えてくれたのは、ミカンなどに付くルビーロウカイガラムシ用の農薬を希釈して、アカラス症にかかった子犬を毎日薬浴させるというものだった。
僕は先輩獣医師が教えてくれた方法でスナッピーを治療してみる事にした。ちなみにこの方法は当時でもあまり用いられなかった過渡的な方法だったようで、現在では行っている例はほとんどないと思われる。それはマシン油乳剤と言う油性の農薬を水で希釈して、スポンジで犬の全身の皮膚に塗り、しばらく毛穴に浸透させてから洗い流して乾燥させるというものだった。
ニキビダニは毛包の中に住んでいるため、動物の皮脂が薬品を弾いてしまい、一般の薬剤で犬の身体を薬浴してもほとんど効果がない。この方法を見つけた研究者は、ニキビダニのこの性質が、ロウ状の物質で身体を覆って農薬をはじくカイガラムシと共通性が高い事から、カイガラムシ防除に効果のあるマシン油乳剤を試したところ、短期間でアカラスの治療に成功したと言うことだった。
僕は先輩獣医師から分けてもらった農薬を希釈して、毎日スナッピーを薬浴させ、ついでにブランも週一回薬浴させた。ブランはアカラスを発症してはいなかったが、双方の犬に毛包虫が多く残っていれば、寄生虫のキャッチボールになってしまって治療の効果が低くなると思われたからだ。
薬浴の効果は眼に見えるほどではなかったが、確かにスナッピーの症状は好転して行った。一週間目は薬浴を毎日行ったにも関わらず、残っていた顔と肩までの間の毛がすべて抜け落ちると言う悲惨な状態に陥ったが、諦めずに薬浴を続けると、二週目には顔に毛が生え始め、三週目にはところどころ禿げが残る程度に改善していった。下の写真は症状が軽減した生後4ヶ月頃のスナッピー。まだ目の周りやつま先にハゲが残っている。

しかしこの薬浴は他の方にはお勧めできないと思う。なぜならブランもスナッピーも、後に肉腫やガンを発症し、スナッピーはそれが原因で短命に終わったからだ。僕はその原因が、この時の薬浴にあったのではないかとひそかに疑っている。
いずれにしても、スナッピーのアカラス症が治るまで、他の犬と遊ばせる事はできなかった。身体が大きくなり、甘咬みがだんだん強くなるスナッピーの相手は、ブランひとりが務める事になった。ブランは毛の抜けたスナッピーが患部を気にして後ろ足で掻いたりするたびに患部を舐めてやり、体力の有り余るスナッピーの相手を根気よくつとめてくれた。
僕はブランの薬浴をしている時に、彼女の首筋に無数の赤い斑点があるのを見つけた。これもアカラスの新しい症状かと慌てたが、先輩獣医師によると、スナッピーが甘噛みの際に乳歯でつけた咬み傷だということだった。僕はスナッピーが咬みついても傷が軽くてすむように、ブランの首に生地の厚いバンダナを巻いてやる事にした。

その後スナッピーが生後一歳くらいになった時、若いラブラドル犬とは思えないほど落ち着きはらった、自信たっぷりの犬に育った。それは義母となったブランという若い紀州犬の牝による教育の賜物だったのかも知れない。




























アカラス症、初めて聞きました。
藁にもすがる思い、よく分かります。
その時出来る最善と思われる事をした事は犬にも通じていると思います。
例え副作用があったとしてもその時は患部が治ったのですから、反省はしても後悔はしないで欲しいなと思います。
細かいことを言うようで申し訳ないのですが、「ブランの首に記事に厚いバンダナを」の所、漢字が違うような。