保護犬メアリ

史嶋桂

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今回は、僕が子供のころ、家で飼われていたメアリと言う保護犬のお話をします。メアリは「犬は人間を裏切らない、犬との約束を破るのはいつも人間の方だ」と言うことを僕に教えてくれた最初の犬でした。

ボクサー犬のメアリは、米軍の軍属が日本に置き去りにしたのを、僕の祖父が引き取り、余命あと幾ばくもない老犬である事を承知で、父が転勤先で飼っていた犬だった。メアリの場合、歳を食い過ぎて他の引き取り手が見つからなかったと言う事情もあった。

メアリは体重30kg以上ある大型タイプのボクサー犬で、タンのコートに、白いソックスを履いた様な綺麗な犬だったが、顔の周りは白髪だらけだった。メアリは老犬らしく、一日の大半を犬舎のスノコの上でいびきをかいて寝て暮らす様な犬だったが、ただひとつ、自分で決めた役目を毎日果たしていた。それは里親となった家の長男である僕を、毎日幼稚園まで送り迎えすることだった。

なぜメアリが誰も頼まないのに、僕の送迎を買って出るようになったかは良く分からない。それ以前に僕の幼稚園の送り迎えをしていたのは、お手伝いさんの恒子さんだった。母はまだ赤ん坊だった弟に着きっきりだったからだ。ある時父が翌日から出張で朝の犬の散歩ができないというので、母は恒子さんにメアリの散歩を頼んだ。

恒子さんは自分では犬を飼った事が無かったので、最初はごつい皺だらけの顔に大きな目でじっと見つめてくるメアリが怖かった。でもメアリは誰が来ても吠える事もなく、散歩に行くときも、リードを持った人についてのしのし歩き、大小1回ずつ豪快に排泄すると、あとは自分から犬舎に戻ってグウグウ寝ている様な手間のかからない犬だった。それで、恒子さんもだんだん慣れてきて朝晩のご飯を大きなボールに入れて、自分からメアリに与えるようになっていた。

恒子さんも朝は忙しかったので、僕を幼稚園まで送るのと、犬の散歩を一緒に済ませてしまおうと考えた。僕も幼稚園の友達に、自分の家の大きな犬を見せて自慢してやろうと恒子さんの計画に賛成した。

朝、恒子さんは僕と右手をつなぎ、メアリのリードを左手に持って家を出た。太い編み紐の引き綱で繋がれたメアリは、なにひとつ逆らう事なく、恒子さんの左について悠々と歩いた。あまりにおとなしいので、僕が引き綱を持ちたいと言った時も、歩きながら気軽に引き綱を渡してくれたくらいだった。父は翌日も出張中だった。恒子さんが僕を連れて玄関をでると、メアリは自分で引き綱を持ち出して地面に置き、玄関の前に伏せて待っていた。それからというもののメアリは僕と一緒に毎日幼稚園に通うようになった。

メアリは前の飼い主の家にいたとき、何回かお産した牝犬だったようだ。たくさんの子犬を育てた乳房も今は力なく垂れ下がり、白内障気味で視力も落ちていたが、新しく家族になった我が家の人間には良くなついていた。おそらく自分が子犬を育てた経験から、僕が群れの子供である事を見抜き、自主的に世話係を買って出たのだろうと言うのが家族の一致した意見だった。

毎日メアリを伴って幼稚園に通ううちに、母も恒子さんも、僕とメアリが毎朝一緒に幼稚園に行くことに慣れてしまい、恒子さんが家事で忙しい時は、メアリひとりが僕を幼稚園まで送って行くようになった。メアリはリードなど無くても、常に僕をかばうように車道側を歩き、僕の知り合い以外が近づこうとすると、大きな身体を盾にして近づけないようにした。その様子は子犬をかばう母犬みたいだった。

ある時、僕は寝坊してしまい、幼稚園に遅刻しそうになった。母は父に車を出して僕を送るように頼んでくれた。可哀想なメアリはいくら玄関で待っていても誰も現れないので、僕を捜して縁側から家の中に入り込んだところを恒子さんに見つかってしまった。

「メアリ、あがったらあかんよ、桂君はもう幼稚園に行ったよ、遅刻しそうだったから車でいったの」

恒子さんがそういうと、メアリはきびすを返して外に飛び出していった。

おそらく僕の匂いを追って来たのだろう。メアリは老骨にむち打って幼稚園まで息を切らせて走ってきて、そのままひらりと園の塀を跳び越えると、必死になって僕を捜し始めた。

園庭で遊んでいた幼稚園児たちはパニックに陥った。白濁した眼を血走らせ、荒い息を吐く大型犬が、幼稚園児の匂いを片っ端から嗅ぎ始めたからだ。園児達は悲鳴を上げて逃げまどった。その園児達の間を駆け抜け、メアリは必死で僕を捜したが見つからなかった。実は僕はメアリが起こした大騒ぎにどうしたら良いか分からず、卑怯にも教室に隠れていたのだ。警察に通報が行き、メアリは駆けつけた警官に捕獲されてしまった。鑑札から飼い主が割り出され、自宅に連絡が入った。大あわてでやってきた母は警官と園長先生に平謝りに謝り、そのままメアリを連れて帰ろうとした。

僕は、泣きながらそこに駆けつけた。

「僕が悪いんだ、メアリを置いてきた僕が悪いんだ、メアリは一つも悪いことなんか無い!」

大泣きに泣く僕が、メアリの首に抱きつくと、メアリはおとなしく座って涙と鼻水で濡れた僕の顔をべろべろ舐めてくれた。それを見た園長先生は、メアリが危険な犬では無い事を悟り僕に言った。

「わかりましたよ。先生も毎朝この犬が君を送って来ていたのは知っています。もう二度と犬を置いてひとりで登園してはいけませんよ」

その後、メアリは僕を送って、雨の日も風の日も僕が卒園するまで、僕の面倒を見てくれた。それから僕は実家に戻り、小学校に上がり、集団登校で通学する様になった。自分の役目が終わったと感じたのだろう、実家に戻ったメアリは桜の花が散るころ、僕と家族に見守られ、眠る様に静かにその生涯を終えた。

メアリの死は、親しい者の最期を看取った、僕の初めての経験になった。

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