保護犬グレンジャー

史嶋桂

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今回は、里親となられた家庭で、里子になった犬がどんな暮らしをしたか、実話に基づいたお話をします。

グレンジャーは在日米軍基地の軍属に飼われていた5歳のボクサー犬の牡だったが、飼い主が帰国する際にフィラリアの陽性反応が出たため日本に置き去りされた犬だった。グレンジャーはボランティアで一時預かりを行っていた僕の家で、日本語の声符を一通り教わった。幸いそれ以前に訓練が良く入っていたし、人なつこい性格だったので、すぐに里親さんが見つかった。それは真岡さん(仮名)と言う商家だった。

真岡さんの家は、個人営業の商店で広い庭が無かったので、グレンジャーは店舗の奥の広いダイニングキッチンで飼われる事になった。そこは従業員が食事を摂る場所で、タイルが貼られていて、犬が粗相をしても問題ないと思われたからだった。グレンジャーは行儀の良い犬で、室内で排泄する事はもちろん、家具に傷をつけるような事も一度も無かったが、一つだけ真岡さんの奥さんを悩ませた事があった。それはグレンジャーが起きていても寝ていても大量のよだれや鼻水を垂らすことだった。そして大型犬の多くがそうであるように、グレンジャーも朝晩二回の散歩と食事の時以外は、一日の大半を寝て過ごすぐうたら犬だった。真岡商店の従業員たちも、最初は獅子頭のようなグレンジャーに恐れを抱いたが、実はおとなしく控えめな犬だと分かると、誰も気にする者はいなくなった。

奥さんは古いタオルを使って犬のよだれ拭き用の雑巾を何枚も縫い、一日に何度も床掃除を行った。

「全く、でかい図体のくせに、本当に赤ん坊の様な犬ですよ」

グレンジャーが来てからというもの、これが真岡さんの奥さんの口癖になった。でも奥さんは優しい人だったので、従業員の賄いを作る時にグレンジャーが行儀良くそばで座っていると、わざわざ犬用に味付けをせずに取り分けておいた肉や野菜を手ずから与えるのだった。グレンジャーはそんな奥さんが大好きだった。

毎朝の顔拭きも奥さんの日課になった。グレンジャーの顔は皺だらけで汚れがたまりやすかったので、奥さんはグレンジャーにスワレを命じ、自分も割烹着姿で犬の正面に正座して、顔の肉を引っぱって広げながら、よだれ拭き用雑巾で顔を隅々まで拭いてやるのだった。そんな時グレンジャーは路線バスがエンジンブレーキをかけるようなドルルルと言う喉声をあげながら顔拭きが終わるまでじっと待っているのだった。

グレンジャーは真岡さんの奥さんをストーキングする癖があった。おそらく最初の飼い主に置き捨てられた経験が、彼に飼い主を片時も見失ってはいけない、と言う強迫観念を植え付けたのだろう。グレンジャーは奥さんがトイレにいく時も、ベランダに洗濯物を干す時も、常に後をついて回り、奥さんを見失わない様に気をつけていた。

困るのは奥さんが電車に乗ってデパートに買い物に出る時だった。奥さんがグレンジャーを家に閉じこめて出かけ、最寄り駅で、さて切符を買おうと周りを見回すと、毎回グレンジャーがでっかい図体で眼を潤ませて座っているのを見つけるのだった。

いくら行儀の良い犬でも、グレンジャーの様に大きな犬を電車に乗せてデパートに連れてはいけない。奥さんはグレンジャーの首輪を掴んでタクシー乗り場まで連れて行き、客待ちをしているタクシーの運転手に交渉して犬を真岡商店まで送ってもらう様にした。タクシー運転手も最初はおっかなびっくりだったが、グレンジャーは扉を閉めると一声も発さずに家までおとなしく外を眺めているだけだったので、だんだん慣れてきて、時には奥さんが気づく前に駅前をひとりで歩いているグレンジャーを捕まえ、

「ワン公、またお宅に送っていきましょうか?」

とタクシー運転手の方から奥さんに交渉する様になった。

真岡商店では毎夕店を閉めたあと、旦那さんが売上金を持って銀行の夜間金庫に預けに行く習慣があった。ある時旦那さんが町内会の寄り合いで銀行に行けなくなり、かわりに奥さんが銀行に行くことになった。奥さんはグレンジャーを閉じこめ、独りで銀行に行くことにした。

事件は奥さんが店の横の路地を曲がった直後におこった。見ず知らずの男に金の入ったバッグをひったくられてしまったのだ。ひったくり犯は、後ろから奥さんを突き飛ばし、バッグを奪って逃げ出した。転ばされた奥さんは驚きと恐怖のあまり声が出せなかった。それで痛む膝をかばい地面にはいつくばったまま男が逃げていくのを見ている事しか出来なかった。

そのとき虎縞の影が勢いよく奥さんのところに駆けて来た。見上げるとグレンジャーの黒い顔が見下ろしていた。彼は勇ましく駆けつけはしたが、何も命令がないので、奥さんを見下ろして悲しそうな顔で鼻声を出すばかりだった。グレンジャーのよだれを垂らした大きな顔を見ると、奥さんはやっと声が出せるようになった。

奥さんは逃げる男を指さし、うろ覚えの声符を必死で思い出し、かすれ声でやっとグレンジャーに命じた。

「モッテコイ・グレンジャー・フェッチ・バッグ・お願い・・・」

グレンジャーはウォンと一声吠えると、普段のぐうたらぶりからは想像も出来ない様な速度でひったくり犯に追いつき、そのまま無言で男の背中に飛びかかった。大きな2本の前足を突き出し、勢い良く男を突き倒すと、男が抱えていたバッグを大きな口でくわえ、うなり声を上げて何度も振り回した。

ひったくり犯は自分に襲いかかったのが目を血走らせたごつい大型犬だと気づくと、バッグを放り出し、尻餅をつき小便を漏らした。しかしグレンジャーはそれ以上男を攻撃する事もなく、奥さんに回収を命じられたバッグをくわえたまま、男を放置して奥さんのところへギャロップで戻っていった。

ひったくり犯はそのまま逃げてしまったが、真岡さんの通報で緊急配備が敷かれ、最寄り駅で警察に逮捕された。奥さんは男の人相風体をほとんど覚えていなかったが、小便を漏らしたズボンと背中に着いた大きな犬の足跡は、見間違えようのない目印になったのだ。

実は真岡さん宅で家庭犬として飼われていたグレンジャーは、若い頃に軍警察犬の訓練を受けた犬だった。里親である真岡さんの家で飼われた時は、単によだれの多いぐうたら犬だったが、若い頃に訓練された事はきちんと覚えていて、奥さんの危機に際してちゃんと自分の役割を果たすことができたわけだ。犬が訓練された能力を発揮するのを見るのは犬好きにとってわくわくする様な出来事だが、出来れば襲撃訓練などは一生実用にされる事がない世の中であって欲しいと思う。

その後のグレンジャーはなんの事件に会う事もなく、10歳と言う短い生涯を、よだれの多いぐうたら犬のまま幸せに真岡さん宅で過ごしたという。

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